2008年07月09日

学習

今日の長岡は曇りではありますが、爽やかな朝です。気温は29度程度まで上がるそうですからこの時期としてはまあまあでしょう。昨日は各地で豪雨があり犠牲者も出たようです。こちらではそんなに降らないのでニュースを見てはびっくりしています。局地的豪雨ですから予測が難しいようです。

今日は鴎外忌です。森 外(もりおうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)〜大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医学者、軍医、官僚でした。第二次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されています。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身で東京大学医学部 卒業[1]です。

大学卒業後は陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごしていたそうです。帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入ったのです。その後、軍医総監となり、一時期創作活動から遠ざかりましたが、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆しました。

乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた方です。なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任していました。

資料の出典はフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』ですが、中に面白い記述があります。常日頃、文人の自分と武人のそれを厳格に分けて考えていたようです。あるとき文壇の親しい友人が軍服を着て停車場にいた森に何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがあったそうです。

軍人としての誇りが高く、娘と散歩する時にも必ず軍服に着替えた程です。あるとき杏奴と散歩をしていると、「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきました。日露戦争後で、軍人が子供たちのヒーローであったのであります。得意満面の鴎外を、あこがれの目で見つめていた子供たちの一人が、襟の深緑色を見て、「おい、なんだ、軍医だよ」と声をあげると、「なーんだ、軍医かあ」と言いながら子供たちは散ってしまったそうです。あとには呆然として立ち尽くす父娘が残され、がっかりとした鴎外は帰宅するまで、一言もしゃべらなかったという話です。

鴎外が軍医総監にまで上り詰めた背景には、長州閥との接触にあったよう、鴎外の出身地である津和野は石見の中でも長州と関係が深く、鴎外は徹底的に山縣有朋にすり寄ったとか。乃木稀典との親交も、同じ長州閥のためであったようです。1892年に東京都文京区へ建設し、晩年まで過ごした住居「観潮楼」跡地に、文京区立本郷図書館鴎外記念室があります。

細菌学を究めて以来、パスツール同様潔癖症になってしまい、どんな食べ物も加熱しないと食べられなくなってしまったという。その一方で、風呂嫌いでもあったらしい。大の甘党でもあり、娘(茉莉・杏奴)の著書によると饅頭を茶漬けにして食べていたという。これは潔癖症も原因で、食品を砂糖漬けにしたり、熱湯をかければ細菌は死滅するから、という考えもあったようです。今日は学習です。(紅)

posted by 紅屋重正 at 09:07| 新潟 曇り| 表町雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする